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  • 2010.04.07 Wednesday
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大学教育学部とは

信州大学の伏木久始(ふせぎひさし)さんの『大学教育学部と地域教育機関の連携 −信州大学臨床教育推進室の実践から−』を聞きました。僕は教育学部出身ではなく、研究科に入って初めて教育学部というところを知りました。僕の予想に反して、教育学部には研究者気質の教授が意外と多いのですね。そうした先生方は学生を教えることに熱心ではなく、凡そ教育学部の教員のイメージからはかけ離れていました。そんな体質はどこの教育学部でもあるらしいのですね。信州学部の取り組みはそうした先生方の教育に対する意識を変えることに成功したそうです。

教育学部と地域教育機関の連携という主題は、学生が現場で教育体験する機会をできるだけ増やすこと、学校現場の敷居を低くすることでした。それよりもインパクトが強かったのは、大学教員が小中高の教員や学生の観察実習の話をする授業に関わっていくことで教育に対する姿勢が変わってきたということです。更に、教育学部の教員全員で飲み会をすることで、教員同士の連携も深まったとのことです。先生同士の仲が良くないということは、そのまま学生/生徒に伝わってきます。先生が人間関係の悪い例を示している現状を問題視することは重要でしょう。特に英語の先生は、コミュニケーターでありコミュニケーションを促進する人であるはずの言葉の専門家だから、学校現場で英語科の先生同士が何にも話さないという話を聞くのは歯痒いものです。教育学部がそうした教師を育てているとしたら、改善が求められるのは言うまでもないでしょう。大学の先生は頭のいい人たちだから、こんな単純なこと理解できないわけがないので、建前だけでもいいから健全な人間関係の例を学生に見せてほしいですね。




教科書のページ数が倍になると・・・

バリに行く前にバタバタしていて、この話題について書けませんでした。だからズルして投稿日時を変更して書きます。教育再生懇談会が、『国数英』で教科書のページ数を倍にするという改革案を出したそうです。毎日新聞の記事によると、その狙いは以下の通り:

(1)自習に適した丁寧な記述
(2)「発展学習」「補充学習」の充実
(3)子供たちをひきつける工夫

要するに、キャッチーな市販の参考書みたいな内容を取り込んで、自学しやすいようにするということですかね。その点では不利益を被るのは参考書を出している出版社くらいでしょうか。あとは、教科書が厚くなってカバンが重くなってしまうマジメな生徒たちか・・・(笑)

教職課程では、実は教科書をいかに扱うかについての授業は一般的に非常に少ないらしい。先生方はもしかしたら、この2倍になった量の教科書をすべて子どもたちにやらせなければ・・・と思ってしまう人もいるかもしれませんね。そしたら生徒も大人のミスコミュニケーションによる不利益を被ることになるかもしれません。。。

恐らく、新学習指導要領でカバーする内容が増えたことも、この教科書の質量の話題も、時事ドットコムの記事のように『ゆとり教育からの脱却』と解釈するのは誤りだと思います。むしろ、本来のゆとり教育の理念に向かっています(参照:教育改革の幻想 by 苅谷 剛彦)。

もともと、ゆとり教育にむけた学習指導要領の改訂は、教える量を単純に削ることではなく、教える内容の自由化を図ろうとしたものでした。しかし、目に見える内容の薄さをじっくり教えることに留まり、それ以上の広がりを展開しない授業が多分ですが増えたのだと思います。

それに対し、今回の新学習指導要領はカバーできる対象を広げることで教えることができる内容に目に見える幅をもたせようとしている。いわば、ゆとり教育政策の失敗を拭う新たな政策です。「ゆとり教育」という語には最初の政策が失敗に終わったことにより、悪しきイメージがつきまとうようになったのでここらで捨てたいのでしょう。

今度の指導要領には恐らくキャッチフレーズはないでしょうね。強いて言えば、『ゆとり教育からの脱却』がキャッチフレーズになっちゃっているのかも。ねじれて伝わった言葉と理念を、またねじることによって、国民を欺いているように思えるのは僕だけでしょうか。

まあ、自主学習を重んじる傾向は良いんじゃないでしょうか。すべての人は何かを考え続け、覚え続け、実践し続ける生涯学習者なのだから。『生きる力』は『テストで点を取る力』ではなく、『物事を多角的に考えることができる力』なのだと思います。しかし、偏差値の高い人が上り詰めるようになっている小中高大のシステムとその理念とがそぐわない部分もあるのでしょう。変革すべきは、評価法やテストそのものかもしれませんね。




学歴とは・・・

こんなタイトルの記事をたまたま読みました。

もはや十分な学歴とはいえなくなった「大卒」の価値【 ビジネスマンのための 大学・大学院の歩き方】

この記事が伝えていることは、端的には『今の大卒は昔の高卒レベル』ということです。そして大卒という表現ではなく院卒と対比が際立つ『学部卒』とい言葉を用いるのが現在のスタンダードということらしいです。

僕は基本的に『今の大卒は昔の高卒レベル』というような言説を信じています。4年制大学への進学率が50%を越えるわけですからね。しかも勉強しなくても「学部生」になろうと思えばなれるんだから、全体的なレベルが落ちるのは当たり前です。でもこの記事はなにかを見落としている。

それは、『今の大学院(修士)卒は昔の学部(学士)レベル』であると言えてしまうことです・・・。まあ、一部の素晴らしい学生は違うかもしれないけど、全体的にはやっぱりそうだと思います。。僕は実際、今M1なわけだし、この言説を信じることによって自分を戒めるという効果を狙っている節もあります。

でも、それでも、レベルの低下は事実として起きているといってもいいと思う。。





小中学生に携帯電話持たせるな・・・?

学校教育版を書いてみます。トピックは「小中学生に携帯電話持たせるな」(asahi.com)ですね。21時前のニュースでも取り上げられていましたが、強制力はないので社会へのメッセージになることを期待しているようですね。小中学生が携帯電話を持たないほうがいい理由として、記事では有害情報へのアクセスをあげている。僕は、携帯よりもインターネットの方が有害情報へのアクセスはあると思うけど・・・。

教育再生懇談会の座長である安西祐一郎慶應義塾大学塾長は、携帯が子どものコミュニケーションを軽薄化するという自論を持っているらしい。僕は子どものコミュニケーション能力が育たないとしたら、それは家庭内と学校と子どもの周りの地域の問題だと思う。携帯電話のせいにはできないし、すべきではない。大人だって、敬遠ばかりしてコミュニケーションを積極的に取ろうとする人なんかそんなに多くないのでは・・・?その大人が子どものコミュニケーションの拙さに文句をいっても、あまり説得力がないかな〜と思う。。もしかしたら、今、子どものコミュニケーションがあーだこーだいっている人は、自分が子供の頃に同様に大人にそういわれていたのかもしれませんね。『最近の若者ときたら・・・』みたいなね。

PISAの成績が下がった論やゆとり教育失敗論には未来ある人たちを決定論的に劣等と見なす傾向が見られる。PISAの成績が下がったのは、たまたまかもしれないし、本来は子どもに関わるすべての大人の責任だと考えるべきなんだと思う。ゆとり教育だって、その世代の子達が望んで実現したものでないにもかかわらず、被教育者が責められるのは非論理的も甚だしい。子どもを守るのが大人であるのなら、こうした無責任なニュースもなんとかしなきゃいけないのでは・・・?

最後に一句詠みます・・・w


子どもには 明るい未来を 見たいよね





教育投資額と教員が増える?

文科省もついにアクションを起こしてくれました!!

日経の記事が良さそうなのでリンクしておきます。なんでも、教育振興基本計画原案と銘打って文科省が財政改革への立案を行っているようですね。これは、自分としてはOECDの調査を「グローバル・スタンダード」として鵜呑みにすることには若干の抵抗があるものの、教育にかけられる税金を増やすという政策は大歓迎です。*1 教員を増やす事は賛成だが、どの教科を増やすかというところがポイントになりそうだ。小学校英語のことを言及している時点で、授業数の増える教科等が優先的に人員増となり、その他の教科はそのままになるということもあるかもしれない。英語教育に関しては人員が増えるに越したことないのでいいんだけど、英語ばっかりに税金を使いすぎないでほしいですね。

ゆとり教育によって達成されなかった「教師のゆとり」は、マネーで解決できます。しかし、国家のお財布である財務省が上の案を拒絶しているようだ。『少子化だし子供たちに金を回せるほど余裕はない』とでもいいたいがばかりに、GDP3.5%で十分だと主張する。人材をしっかりした基盤で育まないのは、国民の年金記録をまともに取らない事に近いほど重い公罪だと僕は認識します。

教師を増やすことで懸念されることが教員の「」の問題。まあ偉そうな事は言えませんが、英語教師に限って言えば全体的な彼らは無能(inability)という指摘は何十年と続いているものなのでしょう。採用する人数が増えるという事は、教師の全体的な質が低下することに繋がる危険性を十分に孕んでいる。まあ、教師志望者は減少傾向にあるのに採用が増えるとなると、希望通りに教師になれる人が増えるというのもありますね。そーゆー人達が受けてきたpre-serviceが重要なんだろうなと思います。少なくとも、教師が学部の勉強程度のことも満足にできないようでは話にならないだろうから。


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*1  「グローバル・スタンダード」という言葉は非常に怪しい日本でいう「国際化」のようなあやふやでよくわからない含意があります。まあ、アメリカやイギリスが"We are the Global Standard"みたいなことは思っていたとしても公的に言うものじゃないので、おかしな語ですよね。まるで日本は地球外のスタンダードを取っているといわんばかりのww





あやふやな制度に溢れた教育界

2008/02/15の東京新聞の夕刊で、『学生の学習時間 把握へ』(正確ではないかも)というような記事を見つけた。要するに、「大学生が小中高の生徒よりも勉強していないではないか!」という主張を文科省が地味に発表したということだ。さて、この記事では「学習時間とは何か?」という根本が曖昧なので、授業時間の比較をしているのだか、自習の時間を比較しているんだかよくわからない。小中高の授業時間と東大生の「授業のための学習時間」を比べて何になるのか全く理解できないのは僕だけだろうか?文科省への不信任感は日に日に高まるばかりである。

前置きが長くなりましたが、この記事では大学の1単位は、制度上、15時間の講義と30時間の自習時間の重みがあるということを紹介している。期間が示されていないが恐らく年間だろう。もちろんこの通りに現在の大学生は勉強していない。例えば、50単位を履修したら、年間に750時間の講義と1500時間の自習時間を要するわけだ。

さて、合計2250時間/年、、それはいかほどか。
なんと、一日あたり、約6.16時間の学習量ではないか・・・!!

恐らく、数十年前の多くの大学生はこれに近い、あるいはそれ以上の学習量があったのではないかと思う。。そして、今現在も一部の学生は達成しているだろう。不可能ではないから。しかし、言うまでもなく、大学生活は就職まで猶予(モラトリアム)と捉え、大学を学問の場所と認識していない学生にとっては、一日の6.16時間(それ以上)は仲間と遊ぶことなどに費やされているでしょう。

この『制度上』という前置きは、中高での英語科が2002年まで、制度上、義務ではなく選択科目とされていたことに通ずる杜撰さを表す。概して、日本の政治では問題の認識がされていても制度を変えるところまで至らないことがよくある。『制度と現状はある程度一致しているべき』というのはイデオロギーかもしれないが、日本の政治は国家統制を目的としていないのだろうか?


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