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  • 2010.04.07 Wednesday
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英語教育シンポジウム @慶應義塾大学

大津研究室主催の英語教育シンポジウム、僕にとっては3度目の参加です。今回の議論について感想・意見を述べておきます。

小学校英語反対グループのように思われいたシンポジウムですが、必修化が決定してしまった今はまた違った主張を始めています。英会話に特化するのではなく、言語への気づきを促す教育の「すゝめ」を広めようとしています。それは前回の資料や『ことばの力を育む』を見ると、より明らかでしょう。

今回は小学校英語も議論に含みますが、中心は『「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想行動計画』を見直すことです。大津先生のこのタイトル自体に対するツッコミは可笑しかったです。MSワードでは「の」の連続であると緑の波線が現れると言い、続けて『この程度の日本語力しかないやつが英語教育を語るな』の一言。できれば別のタイトル案を出してほしかったです。

英語教育の根本原理を問うことが重要なのは言うまでもないことでしょう。しかし、登壇者の数人が楽しそうにしていた御用学者への匿名批判は何だったのだろうか・・・?政府関連の仕事をする研究者は恐らく政府の方針と少なからず近いからそこで働いているのだと思うのですが、どうなんでしょう?もっと踏み込むと、政府関連の研究者は政策を変えるほどの権力(発言力)があるのでしょうか?政策が研究に基づいて立てられているのではなく、研究が政策に基づいて出されているのだとしたら、批判すべくは政府の姿勢か御用学者か・・・?初めからホントは研究など信頼していない政治そのものが問題なのではないか?ここまで言うと言いすぎかもしれないが、『御用学者は、恥を知るべきである』と考えるのであれば、批判したメンバー自身やその教え子がもっと直接的に教育政策研究所や教育再生懇談会に関わることができるポジションにつくよう努力をすべきではないのか?特に後者の座長は安西慶應義塾大学塾長だしね。

山田先生や斎藤先生などが『学校教育で英語が話せるようになるなど幻想である』ということを主張していますが、まさにその通りですね。ただ、『戦略構想』は学校教育のみで達成するものと考えられて作られていないと僕は思います。新自由主義的な系譜を踏んできた21世紀の教育行政(財界)において、学校教育の枠組はあくまで年齢層を表すための言葉としか理解されていないのではないか。学校教育外で力を伸ばすことが期待されているのでしょう。それでも『戦略構想』の作成者は英語教育シロウトであろうから、TOEICやTOEFLなどの数値目標が意味するものがいかに薄っぺらいものかを考慮せずに基準を策定したと思われます。当然、学校教育外の教育にプライオリティーを置く新自由主義の発想は、格差を自然の摂理とでも解釈しなければできないものです。だからって格差を生み出すシステムを作ることも正当性があると思わないでほしいんだけど・・・。『戦略構想』は文科省が作ったものではない(江利川)というのなら尚のこと、この構想に見られる学校教育は単に年齢層を示すだけの言葉にすぎないのではないかと僕には考えられます。

会場に鈴木孝夫さんがいましたが、9・11でっちあげ説をあれだけ断定的に語るとは思いませんでした。信じる信じないは個人の自由ですが、あくまで仮説であることすら言わなかったのはマズイですよね。『アメリカ信ずるべからず』という一面的で偏った価値観を鵜呑みにしてしまった参加者は恐らく少ないので大したことはないのかもしれませんが、アメリカを卑下することで言語相対主義を追求するやり方はいかがなものかと思います。。




小学校英語の授業

8月21〜24日に、今年から開講された『小学校英語』の集中講義にヘルパー+授業研究の一環で参加しました。本来は学部の単位がかかった授業なのですが、学部生の倍以上の現職小学校教員がいらっしゃいました。半分研修のようでしたね。ここで、『(株)ぼ〜ぐなん』の岩橋加代子先生が中心となって小学校英語で実際に使用できるいくつもの例を紹介して下さいました。自分が小学生に英語を教える機会は恐らくないだろうけど、エキスパートの授業をみることだけで勉強になります。自分の身を振り返りますね。

最終日には太田洋先生の小中連携に関する講演がありました。このお二方とは懇親会でもお話をして、お酒の席でもマジメな話題の時は真剣な眼差しで熱く語ってくれました。太田先生の小中連携の発想はカリキュラムの統制などということではなく、中学1年の時に直接生徒に小学校で学んだことを聞くことから始めるという今からでもできる(?)アイディアです。確かに、高校でも1年の最初は中学で何を身につけてきたかみたい時期ですよね。今後は恐らくカリキュラムによる統制が図られるでしょうけど、各地で進行度がバラバラの今できることを主張することは非常に大切だと思います。

授業は受講者が実践する場面がありまして、色んな先生や学生のプチ授業を見られる楽しい時間でした。準備側としても動いていたので結構多忙でしたが、充実した4日間でした。




渡邉寛治の講演

小学校英語に関する講演(研修会)で、渡邉寛治先生のお話を聞きました。文科省国立教育政策研究所名誉所員という肩書きをお持ちの方で、小学校英語を推進して実施にまで持っていった仕掛け人でもあるそうですね。

最初に渡邉先生は、『国の国際(理解)教育目標との関連性』ということで政策面での国際教育の目標を示しました。その目標とは、ー己決定・行動力、個の確立、6生(思いやる心)の3点を育成することで、小中高での外国語教育に期待するのはこれらであるそうです。このことからもわかるように、国際(理解)教育が日本人の欧米化につながるのではないかという懸念が浮かびます。結局、強者に合わせて弱者は変容すべきなのだろうか?日本語/日本社会そのものが,鉢△魄蕕爐砲△燭辰涜枷となるという指摘もあります(松畑,2005)。渡邉先生はこうした文化変容にかなり寛容であるようですが、のところでかなり違和感のある例証がありました。100人を前にする講演者が、"Do you have a pen?"と聞いて回って、小学校の先生方は"Yes, I do"などと『教科書通り』の答えをするのに対し、ペンを貸してほしいという意図を察するのがコミュニケーションだというような話がありました。そのような言外の意図は状況や文脈などパラ言語的な要因から判断するはずです。あれでは事実に関する質問だと思うのも無理はありません。それに、「ペン持ってる?」の質問に「持っているよ」と応えたら、「貸して!」と言われるでしょう。僕にはこの例は意味不明でした。

もう1つ疑問なのは、『国際感覚』などという言葉に隠された欧米中心主義的な思想です。まあ上にも書いたことですが、「国際」=「欧米」というニュアンスは我々の世界観を限定してしまいます。「この世界をどのように見るか」ということが国際理解教育では重要になってくると思います。それが欧米への同化のみでは後進国を置いてけぼりにするだけではないでしょうか?特に、日本のアジアにおける役割をもっと考える必要があるのかなと思います。自民族中心主義で欧米と組んで利潤を求めるより、アジアの経済大国として英語を"English as an Asian Language"として世界の前にアジアの事情に気を配る必要性があるのではないかと思います。地球規模のことを考えることが国際教育であるのなら、マクロの問題ばかりにとらわれてミクロの視点を忘れてはいけないと、渡邉先生の講演をキッカケに学ぶことができました。





卯城祐司の講演

今更ですが、卯城先生の講演 『小学校外国語(英語)活動の在り方:国際理解の視点から』を振り返りたいと思います。

"100 people in the world"。世界がもし100人の村だったら・・・という動画から始まりました。動画がどこかにないかと探してみましたがどうやらなさそうなので、主要な情報の載っているウェブサイトを参照しておきます(If the World Were a Village of 100)。もちろん統計で出されている数字は毎年変わりますが、この世界の現状を知るにはいい教材だと思います。言語についてもDavid Crystal(1993, 2005)などの統計を使いながら、多くの人に話されている言語や「公用語人口」などをランキングにして示して、『なぜ英語か?』という疑問に答えるものでした。あるグループはEILやELFとしての英語学習に異を唱え、あくまで文化/言語理解のためであると主張します。しかし、現実的にはEILやELFとしての英語の機能を無視することはできないでしょう。実際に子どもが英語を学ぶ動機を考えるときに、言語文化理解のためなどと考えるケースはないでしょう。大石や大津のような反英語帝国主義の主張は観念的には理解できるけど、英語科教育において英語学習の動機となる社会的事実を認めることは大切かなと思います。

卯城先生の講演は小学校英語を対象としているので、スキルの話はほとんどありませんでした。
他者を理解する、体験的コミュニケーションでの成功体験、自己表現、文化や言葉への興味/関心という4点を最も重要だと挙げています。異文化体験は表面的なエンカウンターに終わっては意味がないので、振り返りをしたりキッカケを通じて文化や言語の知識を深めるなどの工夫が必要でしょう。小学校の先生方に不安があるという声もあるでしょうが、新学習指導要領の実施からやらなければならないのはすでに決まっていることなので、試行錯誤するしかないのでしょう。将来的には教員養成に英語活動も加わるはずですし、全体的な経験値も増していくので問題は少なくなると思います。最初のうちは犠牲者が出るかもしれませんが、中高で救っていくしかないと思います。中高の先生も、小学校の英語活動で活かされているコミュニカティブ・アプローチの実践を知って損はないんじゃないかと思います。

9月15日に慶応でシンポジウムがあるように政策的に英語教育は揺れているけれど、現場での揺れを軽減させるのが教育行政の本来的な役割ではないかと僕は考えています。どのような議論がされるか楽しみにしています。次こそはすぐにレビューしなければ・・・。




小学校英語教育学会 福島大会

20,21日と、小学校英語教育学会にいってきました。

直接自分の修論に関わるものはほとんどなかったため、ビッグネームお目当てというところもありました。例えば、大井恭子、久埜 百合、太田洋、そして菅正隆(敬称略)。大井先生、久埜先生、太田先生の発表はほぼすべてチェックしましたが、どれも気づかされることが多かったです。菅さんと学会長の渡辺時夫の全体討論会での発言も興味深かったです。特に菅さんは現場教師を10年なさって指導主事を経て、現在「文部科学省初等中等教育局教育課程課教科調査官、及び国立教育政策研究所教育課程研究センター教育課程調査官」という経歴の持ち主。ただの官僚ではないことから、彼の発言は役人くさいところがほとんどありません。何百人の前で話しているのに、内緒話のような実情も語ってしまったり・・・^^;

小学校英語教育学会は、必修化が決まる前からずっと賛成派の集まりだったようです。まあ賛成か反対かでみることより公正な形で実行可能かどうかを考えるべきという人もいるかもしれないけど、必修化が決定した今では小学校の先生方がこぞって研究校の成果を聞きにいらっしゃっていました。もう賛成か反対かではなく実施の段階に入ってしまったので、より実践的な自由研究発表が多かったように思われます。しかし、実践的であればあるほど、『現場での状況判断が大切』、『それぞれの子どもに合う』という美辞麗句が並んでしまうのもまた事実かな。無限の広がりがあるのが教育であるのはわかるのだけど、ケーススタディを並べただけでは物足りないと感じてしまうこともありました。

小中連携などある程度全体的な話題にしても踏み込めるレベルは限られていて、しまいには地方行政のシステム改善とか先生方の努力などで終わってしまう感じがしました。小中連携に関しては自由討論で多少周りの人と議論する時間があったので、少しだけ自分の考えを話す機会がありました。それが、一番前に座っていたものだから直接話していた人が菅さんだったというスゴイ状況になっちゃってました。しかも顔で菅さんを認識できなかったので、討論が進むに連れて気がつきました。まあ、面白い経験をしたと思います。

もう少し、何を学んだかを整理整頓する時間を取りたいです。が、テストにレポートにと切羽詰っているので、どこまでできるのやら・・・。

ともあれ、Asia TEFLと全国英語教育学会も楽しみです☆





小学校英語教育 研究授業

とある小規模のステキな小学校へ、英語の研究授業を見に行ってきました。

先々週、中学校にいったときも感じたのだが、みんな意外と見た目はものすごく幼い。小学校なら160cmくらいの子がいくらかいてもいいかなと思っていたが、全然そんなことはない。。まあ、自分が基準というところに誤差があるのでしょう。小学校の高学年なんか妙に落ち着き払っていた記憶があるし・・・^^; 僕のイメージとは裏腹に、小5,6の子たちはかわいいもんでした。高校生の時に同じようなことを思ってなかったはずなので、もしかしたら自分が歳を取ったからなのかもしれません。。

雑談はさておき、今回訪れた学校は小規模校で先生方が皆、『英語の授業がんばってやろう!』というモチベーションをお持ちなので、1年生から英語に親しませる活動を少しだけやって、徐々に増やしていってるらしいです。研究授業では5,6年生の子たち(総勢20名以下)を一緒に教えていて、Classroom Englishはすでにかなり使える状態にありました。最初は3,4年の時にも英語の授業を経験している子たちだということを知らなかったので、『5年生から英語を始めたら、こんなことまずありえない』という推測から入っていきました。やはりその通りで、学校によってコンテクストが異なるところです。ところで研究授業などであまりオーディエンスにそのようなコンテクストを説明することなく議論をすることが多いような気がしますが、これは果たして良いものかどうか・・・。

あとは、小規模校をまず知らない自分にとって、自分が知っている小学校と世界観が異なると感じました。40人学級×3 あったところで僕は小学校高学年を過ごしたからかどうかはわからないけど、授業中に(ある程度)自由に発言するような雰囲気はまあなかったかなと思います。例えば、20人弱を対象にした授業が40人弱のクラスでも通用するかといったらそうでもないと思うので、今度は大きなクラスの小学校英語を見てみたいです。

小規模校では質的にこだわって授業をできるところが素晴らしいと思います。先生と子どもの距離も大人数より近く感じるだろうし、僕にとってはうらやましい環境といえるかもしれません。ただ、中・大規模校と比較した場合に、必然的に知り合う人数が限られてしまうという点もあるでしょう。二律背反ですね。

学校というところは、熱心な先生が揃えば、非常に素晴らしい学習の場になるのだなと改めて思います。特に中高で経験的に多かったお役所仕事タイプの先生では、学習が活性化されないんだろうなと思います。『先生は生徒のことを一生懸命考えている。』 それだけで十分ですね。生徒から見る教師のコアの部分って、ココなのかも・・・!




【080706】 英語教育関連ニュース

さて、週1ペースでやっていこうと思っている英語教育関連のニュースへの感想です。ちょっとだけ英語に関係ない教育方面の話題も含めます。

小学校英語指導者 必修化で注目度アップ 中学校とのリンクに課題も(MSN産経ニュース: 2008. 07.01)

NPO法人(特定非営利活動法人)「小学校英語指導者認定協議会(J−SHINE)」(東京)が資格認定している「小学校英語指導者」

タイトルからはわかりませんが、まずJ-SHINEの「小学校英語指導者」という検定に注目が集まっているようですという出だしから始まります。僕は勉強不足で全然知らなかった資格なのですが、
上智大学外国語学部の吉田研作学部長、明海大学外国語学部の小池生夫名誉教授ら5人が資格認定委員を務めている。

と政府の研究機関にも関わっている著名な方々が委員ということで、なかなか本格的な資格だということがわかります。

音声重視の英語教育から中学校で文法重視に変わることで、「中学校とのリンクに課題」があるということらしい。ところで、音声中心の英語学習があたかも素晴らしいものとされ、『みんな大好き音声英語☆』みたいになっている感がありますが、その音声の意味がわからなくて何をしているのかもわからない、という子どもにとっては辛いだけということも見落としてはならないのではないでしょうか?みんなが好きな教科なんてないということをまず認識しなければならない。加えて、教科教育は実生活で必ず活きなければならないというような実用主義的な性格を持たないはずだと思います。9年間英語を学んでも使い物にならないということは、どの教科にも共通することのはずです。

英語教育に力が入ること自体は歓迎すべきことなのですが、予算の見通しもつかないのに暴走している感もあります。

教育振興基本計画(宮崎日日新聞: 2008. 07.02)


財務省にフラれた文科省。教員増の見込みも予算がつかなければ取り下げざるを得ないわけで、豪快なフルスイングをして空振りした感じですね。おかげで現場の教員の負担が増えただけという構図にまたしてもなったようです。教育基本法の改正も、無駄遣いに終わってしまうか・・・?

外から見た日本語(1) 暗黙の了解前提の『高文脈』(東京新聞: 2008. 07.02)


Stuart HallのHigh Context CultureとLow Context Cultureは、情報伝達の言語への依存度を調べたものですが、文化というシステムそのものが違うのに一体何を基準に測定したのかと疑問に思います。ドイツ語や英語話者がコンテクストを汲まないということはなく、そのコンテクストの種類が違うだけなのではないか。

くちかずが多いこと、理屈っぽいことは称賛されない日本語社会が、「低文脈」人種からは、あたかも厳密にものを考えない集団と思われてしまいがちなのは悔しい気がしてならない。「高文脈」のほうがずっと伝達効率が良いはずなのに。

何を理由に『「高文脈」の方がずっと伝達効率が良い』といっているのだろうか・・・?夫婦で「好き」など言わなくてもわかっているというのが例としてあるが、「好き」といってくれないことを片方が不満に思う夫婦が別れることもあるだろうに。。この例を見ると高文脈の効率はそれほど良くないといえるでしょう。文脈なんて個々人で微妙なズレがあるのに、それに依存するのは自分が「低文脈」サイドだからかわからないけど、誤解を招きやすいと思う。

加えて、授業などディスカッションで発言をしない傾向にある日本人はどうか。『だまっていては何もわからない』と泣いている子どもに言うようなセリフをプレゼンターは吐きたくなるでしょう。論文構想発表の場なんかだと、押し黙っている人たちはみんな冷たいと思ってしまうのは僕だけでしょうか・・・?

しかしながら、英語のコミュニケーションの規範に同化すべきかという点に関して、ずっと考えているのですがわかりません。英語という言語を使えるということは、高文脈の文化で培われてきた態度とやらを捨てることになるのか?英語教育のジレンマは『コミュニケーションの規範』にあると思います。自己植民地化を促すだけという批判もあれば、先進諸国のルールに従うというプラクティカルな考え方もあるでしょう。自分の修論の1チャプターは、これについて触れたいくらい今とても関心のある分野です。

大分・教員採用汚職:2年で30人以上口利き 県教委参事(毎日新聞: 2008. 07.06)


さて、スキャンダルです。これで教採を落とされた人たちはたまったもんじゃないでしょう。。。

自分たちがよければそれでいい。他人などどうでもいい』とお考えのようで、、このような人物が教育委員会にいること自体がシステム的に大きな問題でしょう。

ますます教育に関する事情が悪くなるばかりで、優秀な教員どころか成り手すら見つからないなんてことが起こり得るでしょう。国公立の教育学部の倍率も近年落ちてきているらしいし、高齢者の年金から子どもたちまで、国民全員がピンチですね。。




【080626】 英語教育関連ニュースまとめ

定期的にこういうこともしてみましょう。

SNS English Learning Website "iKnow"

さっき見つけたばかりなのでまだ試していないのですが、結構面白そうです。恐らく、自分のアカウントで学習を進めるにあたって、iknowを選んだらクリアみたいな感じなのでしょう。もはや英語もE-learningの時代でしょうか?でも、こうした自己学習のシステムがあるとないとでは大きな違いですね。

公立高入試に選択問題…学校側が難易度設定可に

北海道の話題です。教科書の内容がカットになり、高校受験の難易度も相対的に落ちたからか、上位校ではなかなか平均的な問題では差がつかなくなってしまっているようです。それは東京都の上位校がこぞって独自の入試問題を作っていることからも多少は伺えるでしょうか(半分くらい話題性かもw)。ただ、この記事で話題にしている北海道は独自入試は許さず、公立高校入試に難易度別の選択問題を作り、高校側がそれを選ぶという方法を取っている。新学習指導要領の施行を考慮するならば、妥当な判断といえそうだ。指導要領でカバーされる内容が増える⇒高校入試も難しくなる、ということが予想されるので。

宇都宮市 小中一貫教育を導入 10年度から全校で「9年制」設置も

宇都宮市の話題。素朴な疑問から。9年間を同じ校舎で過ごすことって子どもたちにとっていいんですかね・・・?まあ個人的に同じ校舎なんか4年でも嫌なくらい(笑)なので思うことかもしれませんが・・・。最近やれ中高一貫教育だなんだと子どもの環境を劇的に変えないことが「良い」とされているようです。が、環境が変わらないことで失うことも多々あると思うんですよね。それは彼ら・彼女らの人間的成長にも関わる。。例えば、ロクに他者との出会いのないまま中学校まで終わり、高校に進んだ途端に劇的な環境の変化を初めて体験することになるでしょう。そのとき、果たして新しい人間関係をうまく構築できるかどうか・・・。中学校のときにある程度知らない人と会うことって、大事なんじゃないかな〜と思います。非常に感覚的ですが・・・。

最後にビッグニュースです!

小学校英語:中学、高校教員が指導可能に…文科省改正へ

これは非常にでかいです、いろんな意味で。 英語の授業など全く念頭になかった小学校の教員は当たり前だけど数多くいるので、中高の英語教員がサポートにきてくれるならそれは喜ばしいことなのでしょう(きっと・・・)。ただ、当然のことながら中高の英語教師の負担は増える。それ以上に、実は中高の英語教師は小学校英語教育で求められる音声重視の教え方をしている人だけではないことを考慮しなければならないだろう。文字指導が大事だという信念を持っている方もいる。ただ遊んでいるだけじゃ授業ではないという人もいる。小学校に行かされる理想の英語教師を選ぶのも教育委員会の重要な仕事ですね。



教育再生懇談会の中間報告 〜英語教育〜

前の教員増の記事と合わせて考えたいこちらの記事、「5000校で小3から英語 教育再生懇が中間報告へ」(asahi.com)

中間報告は、かなり思い切った目標やら提言を含んでいますね。これが議論を呼ばないわけがないというくらい、controversialな内容ですね。学校教育のカテゴリーで捉えて全部扱うかどうかは考え中ですが、とりあえず英語教育版を書いてみます。では、英語教育の範疇で重要なところを抜き出してみます。

1. 小学校3年生から年間35時間以上の英語授業を実施するモデル校を全国に5千校程度設ける方針
2. 3年生からの英語授業は「早期に学習を始めた方が効果が大きい」との判断から
3. TOEICなどを活用して小学校から大学までの各段階での到達目標を明確に設定
4. 英語教科書の質や語彙(ごい)数の向上
5. 英語教員の採用にTOEICの点数や英検合格などの条件を課す
6. 重点大学では留学生を学生の2割以上、外国人教員3割採用をめざし、英語授業の割合を3割にすること

こうして挙げるとディスカッション・トピックがありすぎですねw
ということで各トピック毎ではなく複合的に考えてみます。


1と2へのツッコミえっ、小3から!?うわっ、出た、"the earlier, the better"だ。。

全 国のモデル校は色々付き合わされて大変ですね。まあそりゃ早い時期に学べば効果が上がる人もいるのは自然なことでしょう。。そして、結果としてあまり効果 がでない人も当然いることでしょう。この年間35時間がカリキュラム上、他の教科にどのような影響を及ぼすかどうかはわからないけど、母語教育も大事にし てほしいですね。なんだかんだ、思考を支えているのは母語です。そして、英語がただできればそれでいいというわけでもないということを認識しなければなら ないですね。

3と4へのツッコミTOEICで点を取れるような英語教育になる危険性はないかい?

生徒の立場にたって考えてみると、自ら英語を学ぶ目的が見出せなければ、まともに英語を勉強しようとは思わないような気がします。その動機付けは、『国際 化・グローバル化の時代だから』というようなザックリした漠然な理由では彼等は説得されないでしょう。『外国の人々とのコミュニケーション』という目的 も、興味の無い人にとってはどうでもいいことでしょう。『いい学校に入るため/出世するため』というのが、一番現実的に学習者及びその保護者を刺激する理 由となりそうだと考えられます。TOEICで到達目標を明確にするという事は、そうした狙いがあるのでしょうか?

5へのツッコミボーダーラインが一体どこになるのか次第

まあ高校生でTOEICの800点超える人もいるようだから、ボーダーラインを出すとしたら生徒側になめられないような配慮が必要かもしれないですね。例 えば教員採用試験の受験資格で英語資格の下限(英検○級。TOEIC, TOEFL○○○点以上など)を条件として出すとしたら、高いボーダーラインが設けられた場合に英語教師の募集が増えても採用がそれを下回る可能性もあり そう。。英語教師には確かに高い英語力が求められるが、teaching skillsも同様に重要なのだ。教師の質を向上させたいとしたら、teaching skillsの方で新たに資格を作った方が効果が出そうかと思います。

6へのツッコミなにこれ?留学生と外国人教員は皆、英語話者?

留学生や外国人教員を多く受け入れたいという姿勢は今までと一緒なのでさしたる驚きはない。でも、2割や3割は相当多いでしょう。確かにそんな大学があっ てもいいと思うけど、これの狙いって「英語授業3割」ということはやっぱり英語なの・・・?なんだか留学生と外国人教員がまるで日本人学生の英語学習に付 き合わせようとしているみたいで、率直に言って失礼だと思います。プラス、英語話者でなければ受け入れないという風にも受け取れます。

もし、重点大学の学生が素晴らしい英語力をお持ちで学問にも精通していたらば、それはまた「格差」の議論に火をつけることになるでしょうね。まあ、平等な機会が与えられているが個人の努力の結果、差がでたんだといわれそうですが、平等な機会が全国民に与えられているわけが無いです。「再生産」も含めて、格差は資本主義社会では当然のように生まれます。


座長が安西祐一郎慶応義塾長で素晴らしいメンバーが揃っているということで、僕なんかには想像もできないような深いお考えがあるのかもしれませんが、僕はこのような感想を持ちました。



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妄想言語学習

最初に断っておきます。マジメな口調で書くけどネタ記事ですw

タイトルの時点でおふざけなのはよくわかると思いますが、案外バカにできない要素もあるかもしれません。


妄想言語学習(Foolish Imaginings for Language Learning 以下FILL)とは、私自身が数年試して効果的な言語学習方法である。FILLは母語学習においても重要な領域を占めるが、外国語を学ぶ際、あるいは日常的に対象言語へのアクセスがない場合に効果を発揮する。更に、自らの考えたいこと、想像したいこと、話したいことなど話題は完全に任意であるがために、学習意欲を駆り立てやすい。ただ、言語学習そのものに対しての理由・根拠がハッキリしていない場合はどのような学習方法を取り入れたところで効果は上がらないであろう。外国語を学ぶ動機・モチベーションはその意味で非常に重要であるといえる。言語学習そのものの理由がしっかりしていれば、FILLは自らの意思で長期継続的に行うことが可能だろう。

FILLと名づけたこの安易な言語学習方法は、特に単一言語的環境で外国語を勉強する学習者には現実的かつ実用的である。まず何よりも、少しのフリータイムがあれば妄想は可能だというアクセスの良さがキーポイントだ。そのフリータイムは思考能力を働かせる必要が無いお風呂やトイレなどの時間も含められる。そして、妄想という脳内仮想現実の中で、学習者は対象言語をできるだけ高いパーセンテージで使うことが求められる。なので、対象言語を数日間でも使い続けるような環境を経験していることが理想的である。しかし、そうした経験がなくても、想像(妄想)力でカバーすることは不可能ではないだろう。妄想内容が会話にせよ、趣味にせよ、仕事にせよ、考えていることをどのように表現していいかわからない、つまり言語化できないという場面に出くわすことが大半だ。その時に、適切な辞書等の言語化を補助するツールが手元にあると良い。もし辞書等がない場合はそのシーンを覚えておいて後で確認すればいい。そのような繰り返しで覚えた語彙・表現は思考のプロセスに関連しているから定着しやすい。このように手軽に始めることができ、大方楽しめる上に効果的な言語学習方法は貴重ではないだろうか。
段落の構成も考えて書いてみました。Topic Sentence、Controlling Idea、Concluding Sentence...。まとまった文章を書くときに、留学中のAcademic Englishで学んだ頭からこびりついて離れません(笑)

それはさておき、こんな感じの言語学習方法って確立されているのかな〜と今疑問に思いました。多分、文法訳読法と一緒で理論化できるほど深いものじゃないと思うけど、その自然に生まれた学習方法ってのが案外重要なんじゃないかなとも思ったりします。







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